Sanfranscisco Bay Area Life
2005-10-02T07:01:18+09:00
artaira
artaira サンフランシスコ ダイアリー
Excite Blog
Bay Area Life を後にして
http://artaira.exblog.jp/2811210/
2005-09-29T13:28:00+09:00
2005-10-02T07:01:18+09:00
2005-10-02T06:59:31+09:00
artaira
未分類
最後のブログを28日に書いた後、優雅にリンダとの最後の晩餐を過ごす予定だったのだが、引っ越しの準備が押せ押せになり、結局、帰国当日まで持ち越してしまった。
28日朝3時半から、パッキングを始めたが、つめてもつめても減る様子もなく、自分でも「あれ〜〜〜?全然終わらなくなくなくなーい?」と、はじめてことの重大さに気がついた。
「引っ越しなんて」と高をくくっていた。だが、間違いなく翌日の出発まで、時間との戦いであることが、ようやくわかったのだ。かなり問題である。朝10時頃、とりあえず、リンダが貸してくれていた沢山の品(シスコの家を借りたとき、リンダは、「写真家の家には写真がないとね」といってフレームを始め、沢山のHouse Staffを貸してくれた。フレームの写真は、リンダ・コナー、オリビア・パーカーを始め、蒼々たる写真家のものを10枚も!!!)などを返しにいき、その足で空港に彼女を迎えにいった。
ArrivalのDoor4に着くとすでにリンダが待っていた。車を止め、リンダと2ヶ月ぶりの再会をした。
「リンダ、少しスリムになったっじゃない?」
「そう見える?嬉しいわ、きっとワインを飲まなかったからね」
「それは、寂しかったわね」
リンダの家に着くまで、Eiko氏のレクチャーの報告や、わたしの作品のこと、リンダのインドのことなど、お互いに休む間もなく話続けた。
「猫たちは、リンダに会ったら大喜びね!」
「彼らが、私を忘れていないといいわー」
やはり猫は3年の恩を3日で忘れてしまうのだろうか。ちと、寂しい。確かに猫は、犬のように目に見えて喜びを表すわけではないので、解りづらい。
無事家に着き、留守を守っていたHiroyoちゃんもリンダを迎えた。わたしは、もちろんアンフィニッシュワークの「引っ越し問題」を抱えていたが、最後のディナーは、感謝をこめてリンダの好きな物を作りたかったので、そのように提案し、夜は3人でパーティをしよう!ということに。
リンダには、しばし休んでいただいて、その間Hiroyoちゃんが引っ越しを手伝ってくれた。それはそれは大変で、大きくて半端じゃなく重たいスーツケース4ヶ、手荷物として、TEMBAの大リュックに大きい布バッグ。それから、パソなどを入れたバッグというラインナップとなった。わたしは、何の疑いもなく、これを一人で持って帰ろうと思った。見かねたHiroyoちゃんは、
「無理だ。どう見ても」
「新宿まで母に迎えに来てもらうことになってるから大丈夫!」と、わたし。
「そこまでどうやって、一人で運ぶの?」
「なんとかなるわよー」
わたしは、やっぱり楽観的な人間なのだろうか。
あるいは、なにも考えていないのだろうか。
夜8時過ぎ、いったん作業をやめて、ディナー作りに向かった。
リンダがとても気に入ってくれていた「アボガド・ツナ」に「ヒラメのカルパチョ」などを3人でほおばりながら、リンダのお土産話に白ワインが進んだ。
食事が終わり、リンダに「Mission St.」を見ていただいた。一枚一枚丁寧に見てくださり、適切な感想、アドバイスをくださった。
「まるでメキシコね!」
「Masumiは、ポートレートも、すごくいいわね」
「これだけ作るのに、大学院生だったら2年はかかるわね」
etc・・・・。
Hiroyoちゃんも、優しく
「いい作品展になりそうね」と。
同時に進行していたあと2つのプロジェクトは、近いうちにあらためてリンダに見せにくることを約束し、Hiroyoちゃんと再び引っ越し作業へともどった。
持ちきれない荷物を船便用に箱に積め、すべてが終了したのは朝の3時を過ぎていた。
二人でリンダの家に戻り、7時まで眠った。
朝、起きて支度をしているとリンダが私に箱をひとつ手渡した。
彼女がインドに行く前日に二人で話しているときに、わたしが、
「研修の思い出に、リンダの作品を買わせていただきたいのですが」
というと、
「わたしも、同じことを考えていたのよ。でも、それは、私からのプレゼントよ!どのイメージがいい?」
あまりの、光栄に驚いた。
リンダは、そのことをきちんと覚えていてくれ、「忙しいときに、いろいろありがとう。」といって、そっと渡してくれた。
わたしは、奪い合う関係ではなく、与え合う関係の素晴らしさを体験した。
ぎりぎりまで引っ越し準備でばたばたしていた出来の悪いテナントのわたしに、最後まで優しくしてくれたジョセフィン、まるでサバイバルのような引っ越しを親身に手伝ってくれ、空港まで送ってくれたHiroyoちゃん、そして、どんなときも上に立つわけじゃなく、一人の人間として同じ目線で優しく関わってくれたリンダ。
みなさん、ほんとうにほんとうにありがとう。
シスコでの滞在の最後にいただいた、かけげのない宝物。
これが、「まごころ」というものなのだなと、深く深く心に響いた。
神様の采配、ギフトに、こころより感謝してやまない。
素敵な、体験をありがとう。
いま、空を飛びながらこの1年間のさまざまな出会い、出来事、問題などを通して自分が確実に変化したことを不思議なほど体で感じている。時間、空間をすごい早さで移動して、今度は日本という場所に戻り、自分がどんな風にこれらの経験を咀嚼しアウトプットしていくのか。
これまた、どうしようもなく自分にわくわくしている。
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Good by Bay Area Life
http://artaira.exblog.jp/2790314/
2005-09-28T21:18:18+09:00
2005-09-28T21:14:59+09:00
2005-09-28T21:14:59+09:00
artaira
未分類
一年はあっという間に過ぎた。今日は、インドから帰ってくるLindaを空港まで迎えにいって、彼女の家に泊まる予定だ。そして、明日の朝日本に向かう。
じつは、まだ、パッキンングの最中で、いったいいつ終わるのかわからない。既に5箱もシッピングしたのに、まだまだ山ほどの物がある。こちらでの、数えきらない出会いや思い出とともに、バッグに詰め込んでいる。
「Bay Aria Life」を読んでくださった皆様、わたしのつぶやき日記につき合ってくださりありがとう。けっこう、最近つぶやきも癖になってきていたので、もしかしたら、またどこかではじめるかもしれないが。
See you soon!
Good by My Bay Area Life・・・・・・
Sep.28.2005
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ルース・バンハード
http://artaira.exblog.jp/2791689/
2005-09-28T03:15:00+09:00
2005-09-28T23:43:01+09:00
2005-09-28T23:41:07+09:00
artaira
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3時にHiroyoちゃんとhttp://www.skjstudio.com/bernhard/ルース・バンハードの家に遊びにいくことになっていたので、CraySt.へと急いだ。
ルースは10月でなんと100歳をむかえる。エドワード・ウエストンの影響を受け写真家になった素敵な女性である。2年前も伺ったが、今回も全く変わることなく、チャーミングで愛らしく、凛とした面持ちで私たちを迎えてくれた。細江さんからのメッセージ、倉持さんからのメッセージを白いバラの花束とともに届けた。
私たちの写真を見ながら、楽しいひとときを過ごした。少女のようなあどけなさが、魅力的である。そして、写真を見る目はきらきらと輝き、フォトグラファーとしての誇りと真っすぐなまなざしが、彼女の生き方を語っているように感じた。
ファイプリントが、部屋中にかけられている。
「写真を見てもいいですか?」とたずねると、
「もちろんよ、どこの部屋だって、クローゼットの中だって開けてちょうだい。あなたは、この家の中のどこにいってもいいのよ!」
2年前に伺った時にいらした、彼女のハウスキーパーがいっていた、
「こんなに、前向きでポジティブな人はみたことがないわ」
という言葉を思い出した。
素敵な人生なのだろう。わたしも、そんな人生を生きていきたい。
帰る前に、再びルースに会えてよかった。
「また、遊びにきますね!」
といって、キスをしてさよならをいった。
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本当の親切 ティブロン マリネロ メモリー
http://artaira.exblog.jp/2785679/
2005-09-28T00:06:03+09:00
2005-09-28T00:44:24+09:00
2005-09-28T00:02:46+09:00
artaira
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きょうは、マネージャーのジョセフィンが、私の下の部屋に住んでいるブライスをさそって、ティブロンのダウンタウンの海の見えるベーカリーでのランチに招待してくれた。ジョセフィンもブライスも白人(といういいかたもあまり好きではないが)だが、人種を超えて、わたしを受け入れてくれた人たちである。私たちはいつも、心で話すことができた。そして、わたしが困った時は、親身に助けてくれた。
日本でもあることだが、こちらでは特に「親切」の向こう側に「違う目的」を持っている人が多い。残念なことに、ある程度長くこちらにいる若い日本人にありがちなのように思う(わたしがたまたまであったのかもしれないが)。
もちろん日本人だけではない。アリゾナで車を借りチェックインしたときのこと。そのレンラルカー会社は、アメリカにしてはやけに親切だった。いつもは自分で借りる車までえっちらほっちら重い荷物を引きずっていくのだが、そこは、受付のおじさんからナイスガイの若い男性に引き継がれ、荷物は持ってくれるは、優しい言葉はかけてくれるは。
「ここの会社は、いままでのレンタルカーのなかで、一番親切だわー」
と思わず、そのナイスガイにいってみた。
「ありがとうございます。」
人懐っこい笑顔を返してきた。車につき荷物も乗せてくれてさあ出発!とおもったら、いきなり彼のレクチャーがはじまった。
「お客様、保険にはお入りですか?」
あ〜〜、そういうことね。私は事前にネットから入っていたが、こと細かく質問され、対人のフォローがないことがわかり、「もし、人にけがをさせたら、莫大な補償をしなければなりませんよー、そうなったらたいへんなことになりますよー」
なんて、嫌なやり方だろう。出がけにネガティブなことを言われるほどいやなことはない。なんだかんだと脅かされ、結局私は不安な気持ちに襲われ1日15ドル×15日分の保険代を払うこととなった。
この時も「この国には本当の親切はやっぱりない!」とつくづく思った。
最近は、やけに親切にいってくる人がいると「この人の目的はなんだろう、またなにか頼みたいのかなー」と思ってしまう自分がいる。そんな自分も好きではないが、それくらいじゃないとここではやっていけない。
人を当てにしないで自分で乗り越えていかない限り、「利用し、利用され」のサイクルから抜けられない。一見同じように見えるが、「親切にし、親切にされる」という次元とは全く違う。どこが違うのかというと、「利用する」というエネルギーは、人を大切にしていない。自分のことしか考えていないのだ。自分のために人にしている行為なのだ。もちろん自分のためにしたっていいのだが、「親切」という衣で装っているのでなかなかまぎらわしい。だれだって、優しくされることには、弱い。相手はそれを知っているのだ。
特にこの国にとっては、親切=サービスであり、何と、サービスには「チップ」を払う習慣があるわけで、「ただ」の親切はやっぱりないのが常識なのかもしれない。何もわからない新参者は、かっこうの標的となる。でも、それをするのがアメリカ人ならあきらめもつくが、異国の地で同じ国の人間にされることは結構空しいものである。
気をつけよう、暗い道と親切ごかし(笑)。
利用されたと感じたときは、後味が悪いものだ。でも、結局は利用されている時は、自分も相手に頼っていたりと、何らかの期待をしているものだ。
この、サイクルから抜け、「本当の親切」を分ちあえる人たちとの関わりは、心が休まり愛に満ちている。わたしのネイバーが、そういう人たちだったことは、希有な幸運である。
ランチのあとにSX-70で写した3人の記念写真には、私たちの関係性がみごとに現れていた。
こんなに、安心している自分を見たのは久しぶりだった。
写真て、本当にすごい。
日本に帰ったら、スキャンしてアップしよう。
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ぼくらはみんな生きている
http://artaira.exblog.jp/2776974/
2005-09-25T18:27:00+09:00
2005-09-27T01:32:07+09:00
2005-09-26T19:13:26+09:00
artaira
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ちょうど、オーナーのパトリシアももどってきたので、作品をみてもらった。彼女はミッションに30年も住んでいるという。一枚一枚「これは、〜丁目のアリー(路地)ね」という具合に、ミッションをかなり把握している人なのだ。
そんな彼女が、作品を見ながら何度も何度も「すごく感動してる!」といってくれた。わたしは、「ありがとう!」といって彼女を見ると、彼女の目から、ぽろぽろと大粒の涙がこぼれていた。「ミッションをこんな風に捉えたのね」と彼女はいった。
わたしは、「わたしの愛を感じていただけますか?」と尋ねると、胸を手で押さえながら「すごくすごく、こころが感じているわ」と答えてくれた。
わたしは、正直、予期していない出来事にすごく驚いたが、もちろんとても嬉しくて、わたしの心からも涙がこぼれた。
ミッションの写真を撮り始めた頃、周りの人はこんな風にいった。
「なんで、ミッションなんか撮るの?」「あの道は、通りたくもないわ」「危ないから、近づかない方がいいわ」
ミッションは、英語の話せないメキシコ人やキューバンをはじめ、カラードのるつぼである。
人はいつから、人の上に人をつくってしまったのだろう。
帰り道、運転をしながら、無性に涙が込み上げてきた。
ふと、小さな頃に歌った歌をおもいだした。
わたしは、泣きながら大声で、歌った。
「僕らはみんな生きている、生きているから楽しいんだ。
僕らはみんな生きている、生きているから悲しいんだ。
手のひらを太陽に透かしてみれば、真っ赤に流れる僕の血潮
カエルだって、おけらだって、アメンボだって、
みんなみんな生きているんだ友達なんだ」
生きているってことは、誰にとってもとても尊いことなのだ。
大声で歌ってみたら、不思議と心が晴れ晴れした。
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Eiko in Photo Alliance
http://artaira.exblog.jp/2764061/
2005-09-24T17:25:34+09:00
2005-09-25T03:18:24+09:00
2005-09-24T17:23:09+09:00
artaira
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た。きょうは、夕方6時からのレセプションまで、私たちでダウンタウンのギャラリーをご案内することになった。Hiroyoちゃんのナビゲートで49thギャラリーからはじまり、ユニオンスクエアーあたりのギャラリーを散策した。
写真を見ながら、さまざまな話へと展開した。
「今年アリゾナにいったときにね・・・」
とおっしゃった細江さんのことばに、すかさず
「それって、もしかして、HOPIじゃないですか?私が帰る次の日に「ガウディ撮ってる写真家が日本からくるんだよね」と聞いて「もしかして、細江さん?」って思ってたんですよ。」となげかけると、「そう、ぼくだよ」!!!
なんという偶然だろう。HOPIの時は、帰りのエア・チケットの日程が迫っていたので、引き止められながらも出発するしかなかった。
そして、今回シスコできちんとお目にかかることができた。
ネイティブのことや、このところ、私の中から何故かでてくる「原爆」の話題について、細江さんからたくさんのメッセージをいただいた。
まさにシンクロニシティである。
わたしたち3人とも、原爆について、戦争について、人類の未来について、写真家としてできることについて・・・・。
かなり近いイメージを共有していることを実感させていただいた。
Hiroyoちゃんとも、細江氏のHotelにつくまで、ひとしきりそんな話題で盛り上がっていたわけで、またまた神様の采配に、「なかなかやるなー」と感心してしまった。
日本人だからできることを、また、しなければならないことをブレイブ・ハートでわたしもチャレンジしていきたい。
サンフランシスコの暖かい太陽を浴びながら、ユニオンスクエアーのカフェで、写真について、世界について、ルナロッサについて自らのお話をうかがえたことは、シスコでの忘れられない思いでとなった。
レクチャーも、素晴らしく、満員の客席も細江氏の偉業に送られた大きな拍手であふれた。
フォトアライアンス(写真同盟)として、ボランティアで参加された細江氏、ジャパンソサエティ、P.G.I.をはじめ、それにスポンサードをされた皆様、企画プロデュースでインドに行く寸前まで尽力していたフォトアライアンスの主催者リンダ・コナー氏に、アメリカでこのような素晴らしいレクチャーが実現されたを、心より感謝申し上げる。
わたしも、こんなに素晴らしい活動のお手伝いができたことを、こころより光栄に思い、深く感謝する。
いやー、写真て本当にいいものですね。
フォトアライアンスがワールドワイドに展開し、写真が世界をつなげていくこと、世界が理解し合えることのために、非力ながらこれからも私にできる事で応援していきたい。
フォトアライアンスHP
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プライベートパーティof Eiko Hosoe
http://artaira.exblog.jp/2760867/
2005-09-22T23:26:00+09:00
2005-09-26T18:15:08+09:00
2005-09-24T00:33:40+09:00
artaira
未分類
会場となったお宅は、それはそれは素晴らしく立派な家で、いままで伺ったなかでもベスト1に匹敵するだろう。同じティブロンといえども、わたしのアパートなんぞはもちろん比較にならない。部屋中に写真をはじめとしたアートコレクションがかけられ、見た事もないような珍しく美しい蘭がいたるところに配されている。デッキからは海の向こうにダウンタウンが見下ろせる。デッキのわきの階段を下りていくと、芝生に囲まれたプールにいきつく。まるで、バリのホテルのようだ。なんという、贅沢な空間だろう。ため息がでる。
このお宅の方には昨日はじめておめにかかったうえに、話がきちんとつたわっていなかったとみえ、はじめのうち私たちの事をどうも、アジア人のケータリングサービスだと思っていたようだ。なにげに、冷たい雰囲気がつたわってくる。BBQコーナーでラムチョプなどを焼いていると、「後でカードをくれる?」といわれ、二人ともどうやらそう思われていることに気がついた.わたしたちはフォトグラファーで、リンダの生徒で、留守のリンダの代わりに料理を作った事を説明すると、すごくびっくりしていた。それ以来、とても親切にしていただいた(笑)。アメリカのお金持ち社会をかいま見た、貴重な経験である。
なにはともあれ、かなり気に入っていただけたようなので、
二人で、「もしかして、わたしたちケータリングで稼げるかしら????」
なんて、すこし、真剣に考えたてみたりして。
料理も一段落して、細江さんにご挨拶をした。堂々とした風格は、さすが世界の細江氏である。にもかかわらず、私たちにも丁寧に対応してくださり、一流ということはこういうことだと思った。
明日は、レクチャーの日。これが、わたしの研修のメインイベントだ。世界に通用する日本の写真家は、数えるほどしかいない。アメリカ研修の最後の締めくくりが、日本を代表する写真家であることは、わたしにとってすごく意味のあることだと思う。その、エネルギーと精神をアメリカという地でおおいに吸収したい。
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Mission St.プリント終了
http://artaira.exblog.jp/2760999/
2005-09-20T00:41:00+09:00
2005-09-24T01:12:02+09:00
2005-09-24T00:51:18+09:00
artaira
未分類
出来上がったプリントを並べてみると、自分のMissonへのまなざしが見えてくる。自分が感じ考え生まれたテーマで撮影したものを、改めてながめると、また新たな感覚が生まれてくるものだ。
昨年フォトセラピーのグループ展を行ったときのわたしの作品はサイアノタイプで作った9枚構成のマンダラだった。タイトルは、
「to learn to learn,to learn to love」。そのことばが、再び心に浮かんだ。
そう、私の内側が求めてやまないもの。
それを知りたくてわたしは、Missionを撮ったのだ。
to learn to learn,to learn to love・・・知る事を学ぶために、愛を学ぶために
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ゴールデンゲイトの汽笛
http://artaira.exblog.jp/2736435/
2005-09-19T10:41:00+09:00
2005-09-22T00:10:54+09:00
2005-09-20T02:26:21+09:00
artaira
未分類
この辺りに住む人たちは、帰りも早く、夜7時を過ぎた頃には、みんな家で静かにすごしている。間違いなく、私が一番帰りの遅いネイバーフードだろう。わたしが帰るころには、あたりはいつも物音一つなくしんと静まり返っている。
いまの時期、サンフランシスコは霧で覆われる。ゴールデンゲイトブリッジは、霧の中に浮かび上がり、それはそれは幻想的な光景である。
今日の明け方、浅い眠りの彼方で、船の汽笛が聞こえていた。
霧が深かったのだろう。
霧深い夜、ゴールデンゲイトから港にはいってくる船たちは、灯台のかわりに汽笛でお互いを知らせ合う。
深く遠くで響く汽笛の音を聞きながら、海とわたしが近いことをすごく幸せに感じた。
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サンフランシスコ ニューヨーク 東京。写真関連比較
http://artaira.exblog.jp/2729687/
2005-09-18T23:52:00+09:00
2005-09-22T00:11:25+09:00
2005-09-19T02:21:19+09:00
artaira
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シスコのプロラボは、どこも日本より高めである。先日、いつもと違うところにカラーネガを出してみようと思ったら、ブロー二120が、1本7ドル80セントプラスタックス、そのうえ3日もかかるといわれて、おもわず、「やめます」といった。いつもは、ニューラボという現像所にだしている。ここは、それでも1本5ドルプラスタックス、仕上がりは3時間後なのだ。日本は、2時間でだいたいあがる。ちゃんと切ってフィルムをケースに入れてくれる。こちらは長いままだし、確実にフィルムの平面性が悪い。日本ではそう思った事がなかったが。
8月にニューヨークのプロラボに友人のあがりを代わりにピックアップにいったら、なんと、1本3ドルプラスタックスで、あまりの違いに驚いた。
正直、ニューヨークの方が俄然品物が豊富である。小さなフォトショップでも、オリジナルのデジタルプリントペーパーを販売していたりして、これがすごくよかった。ICPにいっていた友人が作ったデジタルプリントのポートフォリオをみて、まるで本物の写真集のようにすごく素敵だったので、わたしもおもわずかいにいってしまった。紙の厚みも選べて、テクスチャーもいろいろ。隣のお店は、フレームや写真アルバムの表紙、などなど、どれもセンスがよくて、重くて持ちきれないほど買ってしまった。日本に帰ったらこれで、デジタルの作品のポートフォリオを作る予定。これは、かなり完成度が高く、オリジナル写真集として、立派に永久保存版にできるクオリティー。かなり、素敵だ。オリジナル写真集作りも、まえから暖めている企画である。
フレームやマットはライトインプレッションにメールオーダーが主流。わたしも、領事館の展示のためにオーダーした。これが、到着が遅れに遅れて展示に間に合うかどうかなりはらはらした。前日にやっとついてほっとしたのもつかの間、結局フレームの部品が2つ分足りなかった。
アメリカのメールオーダーは、ほんとうにあてにならない。ちゃんとネットから頼んでいても、梱包は人間がするわけだが、これがかなりの頻度で間違えが多い。品物の間違えから、数、住所、手抜きその他多数である。カスタマーセンターに電話して、問い合わせると「あっ、そう」「そりゃー、たいへんだったねー」という具合でまったくの他人事。「おまえだよ!!!!」っておもってしまうが、こちらは分業制で「私にはいっさい関係ありません」という態度が一般的。もちろん、まちがったこと、遅れたことに対して謝られたことなどない。こちらは、まず謝らない。相手のことなど考えちゃーいない。「無責任」という言葉がぴったりだ。
この手のいざこざはあらゆる分野において日常茶飯事である。シッピング、ポストオフィス、車の修理工場、etc。強くいわないといくらでも後回しにされる。だから、必然的に口調も強くなり、かなりがんがんくってかかる。それくらいしないと、のらりくらりと動かない。こういう事に費やすエネルギーと時間の無駄は、こちらにきてかなりのストレスだった。日本で絶対ないとはいわないが、確率の高さに嫌気がさす。ほんとうにイライラすることが多いのだ。自分の事しか考えないし、あてにならない。いった事も守らない。それでも、平気でいる。その上強気である。だから、契約制度やら、訴訟やらが多いのも、ペーパーで責任の所在をはっきりさせるしかないからなのだろう。
話を元に戻すと、
サンフランシスコ、ニューヨークを比べると、やっぱりニューヨークに軍配があがる。シスコは意外と品薄におもう。
ちなみに、わたしがここのところこもりつづけているサンフランシスコのレンタルラボは、3rd St.にある RAYKO。ここは、日本では考えられないくらい広くて何でも完備されている素晴らしい環境である。空間、センス、スタッフ、すべて申し分ない。混み具合は、まあ、毎日20パーセント〜70パーセントといったところ。昨日もカラーダークルームは誰もいなく貸し切り状態。値段は、日本とあまりかわらなく、プライベートダークルームは1時間14ドルプラスタックス。というところ。グループダークルームは8ドル50ぐらいだったとおもう。バイテンの現像の時はどうしてもプライベートダークルームが必要で、10時間いると、それだけでかなりいい金額になってしまう。
これは、かなり耳よりは情報だが、2ヶ月ほど前から、突然「マンスリーパス」というものが出現した。これは私がちょうどカラープリントをしだした頃だが、1ヶ月125ドルでグループダークルームが使い放題。これはさすがに日本にはない。まるでわたしのためにできたみたいで、やっぱりわたしはついている!RAYKOさんありがとう。
これから、カラープリントで作品を作りたい方は、
「ちょっと、シスコに個展のプリントしにいってくるわ」
なんていってみたらどうだろう。
RAYKOが、ずっと存続していてくれますように・・・・。
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マーチ オブ ペンギン By ナショ・ジオ
http://artaira.exblog.jp/2721008/
2005-09-16T20:29:00+09:00
2005-09-17T20:33:25+09:00
2005-09-17T20:29:25+09:00
artaira
未分類
とにかく、残された2週間は、いかなる睡魔に襲われたとしても、がんばってかいてみたい。
先日、「March of Pengins」を見に行った。ナショ・ジオ(ナショナルジオグラフィックス)のチームの製作とのことで、アメリカでもなかなか人気だったので、我街の小規模映画館にいってきた。
「すごい人気よ〜!」との情報だったので、
ティブロンの映画館が満席でみれなかったらどうしよう、と心配しながらも、海の見えるBarで、マルガリータをひっかけてまったりしながら、となりに座ったニュージーランドからの旅行者と盛りあがり、結局上映ぎりぎりに駆け込んだ。
日曜のアフターディナータイム。席はあるかと、あせって会場に入ると、
1、2、3、4、マジ?5人だけ?私入れて6人。少な〜〜〜っ。
これが、我が街の規模である。
日本では「皇帝ペンギン」というタイトルのようだ。なんだか、そのまんまというか、ひねりのないタイトルである。フランスも、同じだったかもしれないが。
しかし、ペンギンさんは、気が長いっていうか、忍耐強いっていうか、すべてがあるいみすごすぎる。一番、わたしにはできそうもないのが、「立ったまま、足の上に卵を乗せて暖める」というワザだ。地面に置くとすぐさま凍ってしまうから、常に足の上に置いておくのだ。えらいなー。
それから、みごとな団体行動。
これも、私にはきつすぎる。
素晴らしき自然の智慧と、命の尊さを見せてくれる、文部省推薦版である。
最後のメイキングの撮影風景にも共感した。
雪の中をカメラを担いで歩く。
砂漠を歩いたことを思い出す。
撮影は、過酷である。
それでも、いくんだな。これが。
アドベンチャラーな人生は、楽し。
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サルサ デビュー in Mission St.
http://artaira.exblog.jp/2703983/
2005-09-13T22:27:00+09:00
2005-09-20T15:19:21+09:00
2005-09-14T23:12:40+09:00
artaira
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動機といえば、ふと、無性にサルサを踊ってみたくなったのだ。わけもなく。どこかレッスンをしているところはないかとおもっていると、偶然ジャパンタウンの掲示板に、「サルサレッスン」というお知らせが張り出されていたので、わくわくしながら参加した。先生は、明るく楽しい元気いっぱいの日本人の女性。初めてのサルサ体験は、なんだか???で才能ないかー、と思ったが、とにかく体を動かすという意味では楽しく汗をかけるので運動不足解消には最適である。
たった1回のレッスンだったので、これではやったうちにはいらない!そこで、サンフランシスコのサルサクラブをネットで検索。あるある。サンフランシスコでは、毎日どこかしらのサルサクラブで早めの時間にレッスンをおこなっている。これだ!っと、さっそくいったのはミッションストリートの南28St.にある、とあるサルサクラブ。
夜8時半、ミッションの撮影を終えて店を探す。紫色のネオンが怪しく光る。薄暗い店内に入ると、奥の方に広いダンスホールが見えた。
「あのー、サルサならいにきたんですけどー」と受付の貫禄あるご婦人に尋ねると、
「それなら、10ドルよ、奥に先生がいるから、まっててね」とのこと。
ぜんぜんできないのにいきなり、一人でミッションのクラブに来る人もそういないのだろう。どきどきするが、そこは持ち前の度胸で乗り越えるしかない。マルガリータを飲みながら待っていると、ついにレッスンタイムとなる。チャーミングなヒスパニック系の女性の先生登場である。真っ赤なミニスカートに破れた黒い網タイツがなんともいえない。そして、セクシーなまなざし。これぞ、サルサって感じですかね。
ホールに人が集まり始める。どう見てもみんな上手そうだ。まあ、いい。できないからきたのだし。
ステップをはじめる。ふむふむ、なかなかわかりやすい。基本が終わると、大きな輪になって男女ペアでのレッスンとなる。なんだか、中学生のときのフォークダンスの時間を思い出す。でも、まだ、ろくにできないのにペアはどうよ、と思ったが、意外にもみんな私ぐらいのレベルであれあれ?という感じで、わからいけど一生懸命やってますという人ばかりだった。ぜんぜんわたしでもオッケー。みんなおもいっきり初心者だったのだ。
1時間はあっという間に過ぎ、ミッションサルサデビューも無事に終了した。すこし慣れてきたせいか、楽しむ余裕もわいてきた。
ときどき、暗室でもペーパーの現像中、真っ暗闇でステップを練習してしまう。シャルウィーダンスの場面を思い出し、そんなもんだなーと思ったりしている.
本当は、帰るまでに毎日でもいきたいのだが、暗室に夜10時までこもっているので、家に帰ると11時。さすがに、いまはいけそうもない。かなり残念。でも、絶対にすきを見てできるだけ多くいきたい。
きのう、最初の日本人の先生に個人レッスンを頼むひとがいて、私も誘っていただいた。先生がわたしの帰国を知り、なんと「サルサレッスン&お別れ会ダンスナイト」を企画してくださった!先生がご自分のクラスに招待してくれて、そこで軽く練習してから、ブライアントのサルサクラブに繰り出そうという素敵な企画なのだ!またとないお誘い!絶対いきたい。絶対。
Anyway,プリントを仕上げることが、いまのわたしのミッションである。
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アメリカ撮りおろし写真展「Mission St」
http://artaira.exblog.jp/2695243/
2005-09-13T00:46:00+09:00
2005-09-14T15:58:11+09:00
2005-09-13T17:44:03+09:00
artaira
未分類
カラープリントも、当然印画紙のテクスチャーによって表現が驚くほど変わる.今回は私にしてはストリートフォトである。「Mission St. ーミッション ストリートー」と題したこの作品は、カリフォルニアに暮らしているうちに感じたアメリカ観を、ヒスパニック系移民の多いミッション地区に写したものである。
写真展用のレジュメから、ミッションの歴史をながめてみよう。
「1942年コロンブスがアメリカ大陸を発見しスペイン人が入植、当時アス
テカを統治していたかれらは、メキシコから北上し現在のカリフォルニア周辺を植民地とした。メキシコのスペインからの独立にともない一時は メキシコ領となり、メキシコ・アメリカ戦争を経て現 在のカリフォルニア州の街となった。
サンフランシスコの南に位置するミッション地区は、1769年スペイン人入植時にヤーバブエナと 呼ばれ、後のサンフランシスコの発祥の街である。先住民へのカトリックの布教活動のための教会ミッションドロレスがここに建設され、現在の ミッション地区となった。
この街は、これらの歴史を背景にヒスパニック系を中心とした移民のエネ ルギーに満ちている。スペイン語が飛び交い、街のいたるところに描かれた壁画には、1920年、壁画というアート 表現を通して社会に提起したメキシコの壁画運動さながらのパワフルなメッセージが込められてい る。 ドラッグディーラー、10代のギャング達の闘争と、デンジャラスなイメー ジで敬遠されることも多いが、ここ数年はドットコムの発展で治安も以前よりは安定したという。
はじめてここを訪れた時「ここがアメリカなのか」と感じた驚きからはじまった好奇心は、この街の成り立ちにさかのぼり、すると、次第に現実のアメリカがみえはじめた。
この街に立つと、いまここに生きていること、ここに存在していることを、また奇麗事では成り立たな い日常を生き抜いていくパワーを肌で感じてくる。
「ミッション」という名をもつこの街に通いながら、わたしは「現実を知るこ との大切さ」を改めて教えられた。
「知ること」は、私たちの責任であることを。
アメリカであってアメリカでない、本当のアメリカ。わたしは、この街が好きだ。」
ミッションという言葉は、さまざまな意味を持つ。ヒスパニック系の人々は敬虔なカソリックの人が多く、教会では、貧困やさまざまな苦しみから切実に祈る姿もめずらしくない。彼らにとって祈りは、生きていくためになくてはならないなものなのだ。
しかしながら、世界の戦争は終わる事もなく。
宗教と侵略と支配・・・。この、ラビリンスから人間は抜け出す事ができるのだろうか。それが、わたしがアメリカに暮らしてさらに深く感じたテーマであった。
話をプリントに戻すと、このパワフルな街をディープマットでプリントすると・・・。
最初の下焼きのものとは、全く別物になった。空気感、湿度感がぐっとでてきた。つや消しのような印画紙の質感は、ミッションの街をまるで詩のように表現したのだ。ドキュメンタリー性の強いテーマであるにもかかかわらず、パステル調の淡いトーンで描くと、彼らの夢や希望の街のようだ。わたしの愛でたミッションへの思いに、この印画紙が力を貸してくれたように思う。
そんな、ミッションストリート。
ぜひぜひ多くの方に見てほしい。
心を込めてプリントしてます。これからも、当分こもります。
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はっぴいえんど
http://artaira.exblog.jp/2675033/
2005-09-09T14:52:00+09:00
2005-09-10T15:20:42+09:00
2005-09-10T15:20:42+09:00
artaira
未分類
リンダの家は、どこにいても音楽が聴けるように、あらゆるところにスピーカーが配されている。CDをかけ優雅な時間をすごす。ふと、 CDコレクションを見ると、
むむ、なかに「はっぴいえんど」の「風街ろまん」があるではないか。
「風街ろまん」といえば、わたしの中学時代の思いでである。
あのころは、友人とバンドを組んで、キャロル・キングとかをコピーしてコンサートにでたりしていた。懐かしき青春!わたしにも、そんな時があった!!!
思い切り、ボリュームをあげてかけてみた。
”か〜ぜ〜をー集めてぇ〜〜”
懐かしい、なんてもんじゃない。
なんかうるうるしてしまう。
歌詞をひとつひとつ聴いていると、ものすごく映像的で、35年前かと思うと
全く色あせもせず、いまも新鮮である。
むしろ、いまの写真につながるような、淡く、それでいて空間をみごとに
表現しているように思えた。
こんな、感性が音を通してわたしの中に染みていたんだなとおもう。
これは、きっとHirroyoちゃんのCDだろう。あした、電話してまたまた、「はっぴいえんど」論議にも花をさかせよう。
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カウントダウン
http://artaira.exblog.jp/2614176/
2005-08-30T01:41:00+09:00
2005-09-03T22:28:29+09:00
2005-09-01T02:40:37+09:00
artaira
未分類
屈折数十年と思っていたが、一生懸命やっているといいこともあるものだ。世の中まだまだ捨てた物じゃない。
神様の采配は、常に絶妙なタイミングである。
ただ、いつも寸止めというところまでいって私を救ってくれるので、かなりはらはらする。いやいや、贅沢をいってはいけない。救ってくれるだけで、ありがたい。まだ、見捨てられてはいないようだ。
ともかく。
シャスタから帰ってからは、ほとんど毎日会社にいくようにcityのラボでカラープリントか、8x10の現像をしている。だいたい、1日10時間くらいこもっているが、あっという間にすぎてしまう。
そして、なにより楽しい。
昨日は一日中、日本に帰ってすぐに行う写真展のためのカラープリントをしていた。去年のクリスマスから撮り始めたプロジェクトで、再び自分に挑戦をしている作品である。写真展については、次回に詳しく書くとして。
私の作品作りというのは、アドベンチャーとサバイバルのようなものだなと思う。私の旅もそうであるように、結局わたしはそういう事が好きなのだろう。撮影自態だってアドベンチャーそのものだし。
そういえば人生も山あり谷あり、まさかの坂を転げそうになりながらもそれ風に楽しんで生きている。いつもチャレンジしていくことが、やめられないという難儀な性質なのだ。
「当たり前の生き方」をしろとか、「不器用な生き方」だとか、あげくの果てには「なにもするな」などといろいろとアドバイスをしてくださる方もいたが、こういう性質だから「お金を手にして、家をもって、いい車に乗って」では、残念なことに幸せになれないのだ。それで幸せになれたら、この生き方よりどんなにか楽な事だろう。
チャレンジのあとに見えるものが見たくて、生きているようなものなのだから。
それが私をより成長させ、そしてなにより私の魂が喜ぶからなのだ。
今日もこれから8x10の現像に向かう。
残されたアメリカでの時間を、思う存分写真にかけてみよう。
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